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目次
序章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
はじめに
第一節 石母田正の小帝国構造論とその後の夷狄論
第二節 研究の視点と本論文の構成
第Ⅰ 部 倭王権の東国進出と蝦夷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
19
第一章 古代の「アヅマ」と「エミシ」についての一試論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
20
はじめに
第一節 「アヅマ」の意味・語源とその領域
第二節 「ヒガシノクニ」と「アヅマノクニ」
第三節 〈ヒナ→ アヅマ→ エミシ世界〉概念の成立と「東夷
アヅマノエミシ

第四節 Ⅱ アヅマの領域画定と「東人」の成立
おわりに
第二章 倭王権と蝦夷の服属― 倭王権の支配観念の変化に注目して― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
50
はじめに
第一節 敏達紀までの蝦夷関係記事について
2
第二節 『書紀』敏達天皇十年閏二月条の検討
第三節 七世紀における蝦夷の服属と倭王権の支配観念
おわりに
第Ⅱ部 律令国家の蝦夷・俘囚支配・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
81
第一章 蝦狄についての基礎的考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
82
はじめに
第一節 蝦狄をめぐる問題点
第二節 『続日本紀』の蝦狄の用例の検討
第三節 狄を含む語句と渡嶋
第四節 蝦狄の消滅
おわりに
第二章 夷俘と俘囚・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
101
はじめに
第一節 「俘囚」と「夷俘」の定義について
第二節 俘囚と〝夷俘〟の移配政策について
第三節 初期の俘囚支配について
第四節 弘仁期の俘囚・〝夷俘〟支配
おわりに
3
第三章 蝦夷・俘囚の朝賀と節会参加について― 八世紀を中心に― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
140
はじめに
第一節 七世紀末の蝦夷の朝貢と饗応
第二節 蝦夷・俘囚の朝賀・節会参加事例の検討
第三節 七世紀後半の蝦夷の朝貢と八世紀の蝦夷・俘囚の朝貢の違い
おわりに
第Ⅲ部 律令国家の俘囚・〝夷俘〟観念の変化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
151
第一章 弘仁期における俘囚・〝夷俘〟観念の変化について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
152
はじめに
第一節 俘囚と〝夷俘〟の内国への移配
第二節 「不論民夷」についての検討
第三節 「民」「夷」支配の二面性
第四節 俘囚と〝夷俘〟に対する「夷狄」観念の付加
おわりに
第二章 西海道俘囚の再検討・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
179
はじめに
第一節 八世紀における西海道の俘囚・〝夷俘
第二節 九世紀初頭の西海道の状況と俘囚・〝夷俘〟
4
第三節 俘囚・〝夷俘〟の富豪の成長― 農業経営からの発展―
第四節 俘囚・〝夷俘〟の富豪の活動― 海上交易への進出の可能性―
おわりに
第三章 俘囚の朝拝・節会参加について― 弘仁から承和年間を中心に― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
210
はじめに
第一節 弘仁年間における〝夷俘〟の節会参加
第二節 『法曹類林』巻一九七 公務五 承和七年二月十七日問答の「朝拝」の解釈について
第三節 清内御園の疑問の検討
第四節 問答から読み取れる承和年間の俘囚の待遇とその特徴
おわりに
第Ⅳ 部 小帝国思想の矮小化と俘囚・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
235
第一章 俘囚の節会参加の意義について― 隼人・国栖との比較を通じて― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
236
はじめに
第一節 貞観年間以降における俘囚の節会参加について
第二節 隼人の儀式参加について
第三節 国栖の儀式・節会の参加について
第四節 俘囚・隼人・国栖の儀式・節会における位置付けについて
おわりに
5
第二章 閉じられた王土観の形成について― 徳化の問題に注目して― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
262
はじめに
第一節 古代の王土観をめぐる研究と問題点
第二節 日本の縁辺規定について
第三節 天皇の徳化の内向き化
おわりに
終章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
277
本論文の内容の概観
結論と今後の課題
6
序章
はじめに
日本古代の国家と蝦夷
エミシ
・俘囚の関係についての研究には二つの潮流がある。一つが、古代東北史研究の中で扱っていくもの
で、今日の研究においてもこちらが主流である。しかし、もう一つ倭王権や律令国家の支配思想の研究の中で扱っていく流れ
がある。こうした研究においては、身分定義や、倭王権あるいは律令国家に対する服属儀礼、朝貢のあり方などが分析対象と
なる。本論文における研究テーマは古代国家の蝦夷・俘囚に対する支配観念の変化を明らかにすることであり、後者の潮流に
属する。まずは、夷狄論研究における蝦夷の位置づけを確認し、本論文の研究の視点と構成について述べていきたい。
一 石母田正の小帝国構造論とその後の夷狄論
古代の蝦夷を研究テーマで扱うにあたり、まずその身分定義を明らかにしておきたい。古代国家の蝦夷の身分定義の研究は、
石母田正の「天皇と「諸蕃」― 大宝令制定の意義に関連して― 」が一九六三年に発表されたことで( 1 )、本格的な議論が開始
されることとなった。その後の夷狄論をめぐる研究動向については、つい最近、鈴木拓也により詳細にまとめられたところで
ある( 2 )。そのため、ここで研究史の確認を行う意味は半ば失われているかもしれないが、考察を進めるにあたって自身の立
場を明確にするためにも、鈴木の研究に導かれながら筆者なりの視点で改めて確認していきたい。
石母田正は、まず天皇の統治のおよぶ範囲を「化内」、その外部の領域を天皇の教化のおよばない「化外」とする。そして、
7
「化外」を① 隣国= 唐、② 諸蕃= 新羅など朝鮮諸国、③ 夷狄= 蝦夷・隼人、の三類型に区別する日本を中心とする小帝国構造
が大宝律令の制定時に成立したと論じた( 3 )。石母田が示したこの帝国的な支配構造は、その後の蝦夷研究のみならず、新羅・
渤海などの諸蕃、あるいは唐などとの外交関係の研究においても多大な影響を与えた。蝦夷研究においては、蝦夷は化外の夷
狄であるという定義に長らく疑問が持たれなかった。
石母田の小帝国構造論を引き継ぎつつ、新たな捉え方を提示したのが石上英一である。石母田の分類によると夷狄には「在
京夷狄」としての蝦夷・唐人から七世紀後半に漂着したタイ系の堕羅人やインド系の舎衛人までが含まれてしまうとし( 『令
集解』職員令
18
玄蕃寮条古記) 、別の観点から分類し直す必要があるとした。蝦夷は自然生的な形質的・民族的特徴によって
のみ弁別された民族集団ではなく、政治的に設定されたものであり、服属国を従える帝国の構造を創出するための夷狄の設定
を目的として作り出された擬似民族集団的呼称であると定義した。擬似民族集団には他に隼人・南島人・国栖が含まれる( 4 )。
この石上の定義した擬似民族集団という捉え方は、律令法によって峻別される区分とは別の視点も併せ持ちながら古代の国家
が蝦夷・隼人・南島人・国栖などの集団を列島内に設定したことを説明するものであり、その後の研究においても継承されて
いる。
しかし、一九九〇年代以降になると、石母田の示した夷狄の定義について、疑問を呈する研究も発表されるようになった。
石母田が示した、蝦夷は化外の夷狄であるという定義に疑問を投げかけたのが今泉隆雄である。今泉は、戸令16 没落外蕃条
の「没落外蕃得還… 化外人帰化者」と賦役令
15
没落外蕃条の「没落外蕃得還者… 外蕃之人投化」という対応関係に注目し、「化
外人」は「外蕃之人」と読み替えることができるため、帰化の規定は「化外人= 外蕃之人」のみを対象とし、蝦夷・隼人など
の夷狄を対象としていないと指摘した。そして夷狄が律令において帰化の対象とされなかったのは、夷狄が王権の下に礼と法・
制度の秩序を備える国家とみなされなかったからであり、夷狄は化内人もしくは化内人化が予定されている集団として位置づ
8
けられていたと論じた( 5 )。今泉説によれば、夷狄は化外人ではないが、化内人もしくは化内人とする予定の集団ということ
になる。
しかしながら、今泉の考察において唐賦役令復原
17
夷狄招慰条の「夷狄新招慰」を「夷狄」を指すものだと解釈している点
について、熊田亮介が次のような鋭い指摘をしている。熊田は、唐制では諸蕃・夷狄の区分はなく、招慰の対象としての「夷
狄」は日本令のいうところの諸蕃・夷狄を包含する用語であるとしており( 6 ) 、今泉の史料解釈に問題があったとしている。
熊田のこの指摘は支持すべきと考える。また、根本的な疑問として、夷狄を化外人ではなく化内人と位置づけることが、律令
国家側にとってどのようなメリットがあったのか疑問である。教喩すべき化外の夷狄が存在している方が、小中華思想をもっ
た律令国家にとって都合が良いように思われる。
また、隼人研究の立場から、石母田の夷狄の定義について見直そうとする動きもある。
伊藤循は、隼人を夷狄と明言する史料は『令集解』賦役令
10
辺遠国条の古記のみであり、その古記も夷人雑類の中に蝦夷や
南島の阿麻弥人とともに隼人を入れているだけであり、古記という一明法家の見解をそのまま実態としてよいかどうか疑問が
あるとしている。また、『令集解』職員令
18
玄蕃寮条古記が堕羅や舎衛とともに蝦夷を夷狄の例にあげておきながら隼人をあ
げていないことが、『令集解』賦役令
10
辺遠国条古記の根拠としての脆弱さを示すとする。そして、南蛮の概念を適用したの
は南島人であって隼人ではないとし、隼人と東人の性質が近いことを指摘した( 7 ) 。さらに伊藤は近年、『延喜式』に規定さ
れた隼人の仕奉について検討し、隼人の吠声などは呪力による天皇守護のためのものであり、中華世界の現出とは関わらない
としている( 8 ) 。
こうした伊藤の見解のうち、『令集解』職員令
18
玄蕃寮条古記が堕羅や舎衛とともに蝦夷を夷狄の例にあげておきながら隼
人をあげていないことについて、今泉隆雄は在京の隼人は隼人司が管掌し、玄蕃寮は関係しなかったためであると明快に指摘
9
している( 9 ) 。また、隼人と東人の類似性については、武廣亮平が隼人は律令制段階では服属儀礼が制度化された集団であ
り、その段階においても「調」の貢納が行われているなどの点で異なるとしている(
10
) 。
隼人の身分については、八世紀初頭は流動的な見方をすべきだとする見解もある。武廣は、古記が夷狄に隼人を含む場合と
そうでない場合があることについて、古記の成立が天平十年( 七三八) 前後であれば天平年間まで夷狄に対する具体的な認識
が流動的だったとしている(
11
) 。
永山修一は、史料上、隼人による風俗歌舞奏上が確認できるのは養老元年以降であるとし、従って隼人が蝦夷・南島人と明
らかに区別される扱いを受けるようになるのは和銅三年( 七一〇) から養老元年( 七一七) の間となり、大宝律令制定時に隼
人は夷狄ではなかったとは言い切れないとしている(
12
)。古記の態度が一定していないことを合理的に解釈することと、八世
紀初頭の隼人の特徴を押さえていくことが重要だと考える。そうした場合、隼人の身分を流動的なものとして捉える武廣や永
山の見解が注目される。
このように、石母田の夷狄の定義について、蝦夷論、隼人論それぞれの立場から提言がなされてきたが、こうした流れとは
別に、独自の見解を提示する動きも近年活発になっている。
田中聡は、律令国家形成期において「夷人」的関係というものが形成されたという、独自の見解を提示している。すなわち、
『令集解』賦役令
10
辺遠国条古記が「○ ○ 人」を列挙するのは、律令国家形成期に個別の集団が倭国家・王権との間に「○○
( 異種・職掌・地名等) + 人」という呼称のもと、流動的な交通関係を形成したことによるとし、これを「夷人」的関係と呼
んでいる(
13
) 。従来の夷狄論とは一線を画す新たな見解として注目される。ただし、田中は古記の「○ ○ 人」が旧来の関係性
が残されたものだとしているが、華夷思想の導入による蝦夷表記の成立などとの関係も説明が必要であると考える。
近年で最も注目されるのは、大宝律令段階において夷狄観念が存在しなかったとする大高広和の研究である。大高は唐の法
10
制史料においては蕃と夷の区別はなく、日本の律令においても諸蕃と夷狄の区別はなかったとする。職員令
18
玄蕃寮条の「在
京夷狄」は唐令の典客署の職掌の「在国夷狄」によったもので、日本律令に見える「蕃」「夷」を含む用語の存在は、唐律令
を継受した結果にすぎないとする。『令集解』賦役令
10
辺遠国条の古記が「毛人・肥人・阿麻弥人等類」「隼人・毛人」など
をあげているのは、古記の段階で列島内の諸種族を一括した概念・言葉で認識していなかったことの表れとする。そして列島
内の諸種族という意味で「夷狄」が使われるのは『令集解』賦役令
10
辺遠国条義解であり、「夷狄」は九世紀までは明確な概
念用語としては用いられていなかったとしている(
14
)。大高は日唐令比較を行い、集解諸説の成立の時間差を考慮した極めて
精緻な検討を行っている。
しかしながら、この大高の見解について鈴木拓也は次のような指摘をしている。『令集解』賦役令
10
辺遠国条の古記と義解
の見解の違いは、時間差ではなく、それぞれの注釈の性格の違いに基づくのではないかとする。古記が「辺遠国」の「夷人雑
類」として毛人・肥人・阿麻弥人・隼人をあげているのは、古記が具体的事例をあげる事が多い非概括的な性格を有していた
ためであるとする。また、義解は令釈とともに形式的・画一的・機械的な傾向があるとされており、明法家の個性の違いに起
因する可能性を指摘している(
15
) 。
大高が唐制における蕃と夷の同質性に着目し、石母田の令文解釈を見直す必要があることを指摘した点は高く評価すべきだ
ろう。ただし、鈴木は『令集解』諸説の基本的な性質を考慮すべきことを述べており、妥当な指摘であると考える。また、『令
集解』賦役令
15
没落外蕃条の古記が「毛人・隼人」について「不レ足レ称レ蕃」としていることに注意したい。これについて大
高自身も古記は毛人・隼人を蕃と称することにためらいを覚えているらしいとしているが、これこそが重要ではないだろうか。
唐制の夷と蕃を区別しないという認識を必ずしも古記は受け入れていないようであり、そこには実態として毛人・隼人を蕃と
称することに無理があったことが表れているように思う。現状において、必ずしも石母田の見解が崩れてしまっている訳では
11
ないだろう。
以上、石母田の研究にはじまり、近年までの夷狄論に関する研究史を概観した。今後は大高による蕃・夷の同質性に注意し
て令文解釈をすべきとする指摘が重要な論点になると思われる。ただし、実態として蕃と夷を必ずしも同一視できていない『令
集解』賦役令
15
没落外蕃条の古記の態度を考慮すれば、蕃・夷の区別が存在したと見て良いと考える。よって、蝦夷は化外の
夷狄であるとする、石母田の指摘を継承する立場で本論文は考察を進めていく。
二 研究の視点と本論文の構成
研究の視点
本論文のテーマは古代国家の蝦夷・俘囚に対する支配観念の変化を明らかにすることである。こうしたテーマを解明してい
くにあたり、主に二つの視点から考えていきたい。一つが実際の俘囚の支配から国家の支配思想を読み取ること、そしてもう
一つが蝦夷の服属儀礼や俘囚の節会への参加から支配観念を読み取ることであり、本論文は後者に重点を置く。
石母田は、俘囚身分について次のように定義している。すなわち、律令国家が夷狄身分としての「蝦夷」を設定したが、現
実の「蝦夷」支配の進行は( 百姓― 夷狄) という対立構造のみで捉えられない集団を生み出した。そこで、そうした集団を表
す中間的な特殊身分として俘囚が生まれたと論じている(
16
)。この石母田の定義はその後の俘囚研究においても継承されてい
る。
こうして中間的な特殊身分として作られた俘囚は、八世紀から九世紀にかけて内国へと移配されていった。また、延暦十三
年( 七九四) 以降は俘囚とは異なる帰降した蝦夷である「夷」も移配された(
17
) 。本来内国に存在しないはずの俘囚・「夷」
12
という集団を移配させることは、在地社会に決定的な影響を与えた。移配先の内国における俘囚と公民との対立が、弘仁年間
の出雲国での俘囚の反乱や、九世紀半ばに関東地方で続発した俘囚の反乱へと繋がったことは武廣亮平によって明らかにされ
ている(
18
)。
しかしながら、律令国家による移配俘囚の支配からは、こうした対立以外のことも読み取ることができると考える。主に天
長年間には、儒教的な道徳観にかなった行いを褒賞して俘囚に叙位した例が見られる(
19
)。また、西海道には富豪に成長し、
巧みに国司に取り入った俘囚の姿も確認できる(
20
)。これまでほとんど注目されることがなかったが、公民との対立・衝突と
は対極の方向に進んだ俘囚も存在していた。そうした存在が、国家や在地の周辺の人々に対し、俘囚に対する眼差しをどのよ
うに変化させていったのかを検討することも、古代における俘囚に対する観念を考察するうえで必要である。
また、俘囚移配の理由については諸説あるが、伊藤循は小帝国主義の基盤の維持・再編成に関わるもので、夷狄を含む社会
構造を創出することを目的としていたとする(
21
)。俘囚移配が国家の支配イデオロギーと関わるものとして考えた時、注目さ
れるのが災害時の賑給の詔である。弘仁年間以降、災害時の賑給の詔にしばしば「不レ論二民夷一」という記述が見える。従来、
この記述は東北地方における公民とエミシ集団の支配に関する考察の中で扱われてきた(
22
)。しかし、これが内国で行われた
賑給の詔で用いられたならば、「民」「夷」とは、「民( 百姓) 」と「夷( 移配俘囚) 」を指すことになる。賑給という天皇
の徳の高さを示す機会において令制国内に存在する「百姓」と「すでに服属した俘囚」という身分の異なる人間集団を対比的
に扱うことの意味とは何なのか。ここからは、九世紀の律令国家の特異な支配観念を読み取ることが可能だと考える。律令国
家による移配俘囚の支配を、従来の公民との対立・衝突とは異なる視点から検討することは、俘囚に対する国家の支配観念を
これまでとは異なる角度から捉え直すことに繋がるだろう。

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